御祭神

 

菅原 道真

波乱万丈の生涯

幼少期

承和12年6月25日(845年8月1日)大和の國(現在の奈良県奈良市菅原町周辺)で生まれたとされ、幼少の頃より類まれなる才能を発揮し、わずか5歳で和歌を詠まれるなど「神童」と称されておりました。

少年期から青年期

18歳で文章生となって以降、文章得業生、正六位下・下野権少掾に叙任、正六位上、そして学者としての最高位であった文章博士(もんじょうはかせ)となり、少年期から青年期は栄進を続けられました。

壮年期

京都から讃岐国の長官として赴任された際、疲弊していた国を建てなおすなど善政を行い、住民に大変慕われました。その実績が宇多天皇に認められ京都に戻り、厚い信任を受け、ますます政治の中心でご活躍されました。しかし、その後、右大臣に任ぜられ、国家の発展に尽くされていましたが、左大臣 藤原時平の政略により、身に覚えのない罪によって太宰府に左遷されることとなりました。

晩年期

ご家族と十分な別れも許されないまま京都を離れる際、ご自宅の梅の木に別れの歌を詠まれました。

『東風吹かば 匂ひおこせよの花 あるじなしとて 春な忘れそ』
(春風が吹いたら、香りをその風に託して太宰府まで送り届けておくれ梅の花よ、主人である私がいないからといって、春を忘れてはならないぞ)

太宰府では、衣食もままならぬ厳しい生活を強いられながらも、皇室のご安泰と国家の安寧、ご家族の安全、またご自身の潔白をひたすら天にお祈りされ、誠を尽くされました。 そして延喜3年(903年)2月25日、道真公はその清らかなご生涯を閉じられました。


菅原道真公と梅には密接な関係がございます。
道真公が阿呼(あこ)と呼ばれていた5歳の時と13歳の時に詠んだ和歌に梅が出てきます。

の花 紅の花にも 似たるかな 阿呼がほほにも つけたくぞある』
『月の輝きは晴れたる雪のごとくの花は照れる星に似たり 憐れむべし 金鏡転じ 庭上に玉房の馨れるを』

また太宰府で詠まれた、

『東風吹かば 匂ひおこせよの花 あるじなしとて 春な忘れそ』

は「飛び梅」伝説として、一夜のうちに道真公を追って九州の太宰府へ飛んで行った梅の逸話が残されております。そして逝去直前に詠まれた漢詩、

『城に盈ち郭に溢れて 幾ばくの花ぞ 猶ほ是れ風光 早歳の華 雁足に点し 将て帛を繋げるかと疑い 鳥頭に点著して家に帰らむことを憶ふ』

からも、
道真公が梅をこよなく愛した様子がうかがえます。


菅原道真公と牛にも深い繋がりがございます。
道真公がお生まれになった承和12年(845年)は乙丑(きのとうし)の年であり、生涯においても、牛を愛でる姿や御命を救われる話も数々伝わっており、延喜3年太宰府でご生涯を閉じられる際には、「人にひかせず牛の行くところにとどめよ」との遺言から御遺骸を轜車(牛車)にてお運びする途中、車を曳く牛が座り込んで動かなくなり、やむなく付近の安楽寺に埋葬したという故事からもその深き縁がうかがえます。


神となりて

生涯を閉じた後、ついに無実が証明され、人から神様の御位に昇られた道真公は、太宰府天満宮に永遠に鎮まり、「天神様」「学問の神様」「至誠の神様」として現代に至るまで永く人々の信仰を集めるに至っております。

その太宰府天満宮から勧請されし道真公が、大和市の御地にも鎮座しておられるのです。