ご由緒

 

大和天滿宮の由緒に就いて

開闢以来外國との戰鬪を交え、始めて敗戰を知った昭和貮拾年八月拾五日其の時、人々が心の奥深く悩んだのは、敗戰の混亂の中に於て、武運長久を祈願した唯一の神社、即ち厚木空神社(祭神は天照大神並びに戰死者の靈)の事に就いてゞあった。人々が一夜熟慮に熟慮を重ねた結果、翌十六日の早朝「敗戰に依り人心が動揺してゐる此の際、社殿を有難く頂戴して大和の何れかの場所に安置祭神しようではないか」と考え、而も最近の大和驛附近の人口の増加は急激に増大し百八拾餘軒になりつゝある現在大和の綠地帶を他に移し、其の場所に神社を建立せしと、主だった人々と馬力車壹臺、リヤカ壹臺を率いて、即ち昭和貮拾年八月貮拾日厚木海軍航空隊に赴き社殿(前述の如く厚木空神社には天照大神を祀る社殿一と戰死者の靈を祀る社殿一の計二社殿あり、其の一の天照大神を祭神とした社殿を譲り受けたのである)を受領し、現在地(大和驛東方參百米)に安置奉齋したものである。


大和天滿宮と命名した理由に就いて

全役員協議の結果、厚木海軍航空隊に奉齋しありし時は、厚木空神社でありしも敗戰に依り軍隊も消滅解散した現在、學問の神として知られる菅原道真公を祭神として「日本復興の道標にすべし」と滿場一致で決定、九州の太宰府より天滿宮を勸請し奉り、茲に「南大和天滿宮」と命名する。
宮司役員氏子と延々列をなし現在地(大和驛東方參百米)に奉祀したるもの也。
のち「大和天滿宮」と改名したるもの也。

昭和四拾年五月貮拾五日

大和天満宮

〔平成三拾年二月貮拾五日 大和天滿宮 氏子総代会〕


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